これから人文系大学院へ進む人のために

http://www5a.biglobe.ne.jp/~teorema/index.html

via http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20041129#p1

例の

「東大で大学院に入るのは自殺行為、それ以外の大学で大学院に入れるのは殺人。」

(c)飯田泰之

についてのリンクです。

私見を少々。

現在の雇用環境においては「殺人」「自殺行為」はそうでしょう。今、私より年長の30前後の優秀な研究者の方々の何人かを存じ上げていますが、この方たちは、私たちのような院生に向かっては、今の職に就くまでの厳しい現状を語ることがほとんどです。挨拶してまず真っ先にその問題が出てくるので、相当厳しいことは確実です。だから、少し現状を数字とわかることから把握して、こちらも戦略を練らないといけないので、そのことは頭に入れてあります。おいおい、詰めていきたいところです。少しは巧く、研究以外でも立ち回る必要があるでしょう。それができるかどうかは心もとないのですが、私の周囲をざっと眺めると、その類のことが比較的得意ではない私よりももっと苦手にする人が結構いるので、まだ立ち回れる余地はあるように捉えています。


で、「雇用環境」と、上段では実は限定しています。「殺人」とする含意においても、論点は専らその一点に集約しています。ですから、それ以外については、実は私は失敗だとは捉えていません。

むしろ、進路や戻る場所があるなら、積極的に大学院を利用したほうが良いとすら考えています。簡単にいうと、「考える力の涵養」ができるからです。本来であれば、基礎的なことは学部の四年間で習得できれば良いのですが(実際にできている人は少数のようですがいるようですが)、なかなかそこまで学部の授業や独力では到達できないのが現状です。

大学院で研究するテーマや内容ももちろん重要ですが、それ以上に、研究を進めていく上で「理解する能力、調査する能力、それを説明して理解してもらう能力、他人と協力できる能力」が必要になり、この能力は研究を通じて身につくようになります。院生と一口にくくっても、その方法は様々で、見ていて面白いです。自分よりできそうな人を探して協力してもらう人、書籍にあたる人、インターネットで縦横に探す人、それぞれです。

更に、大学院においては、どのドメインにおいてもその議論の土台となる「標準書(基準書)」があり、それを前提に議論が進められます。私は会計および経済領域しか知りませんが、他もだいたいそうであることは想像できます。基準書を知る利点は

「泡沫図書を掴まされない」

これだけでも大きいと私はにらんでいます。ええ、学部時代は、理解する意欲はあっても、その論点を説明する書籍を探し出す能力が低く、内容の薄い解説書を山ほど買ってしまったからです。しかも定価で。本当に無知だとお金がかかります。理解するために近道に見えて実は迂遠なルートを選んでいたのですね。

「理解」をとりあえずの目標としたときに、ルートによってコストがだいぶ違います。目的の水準が一定ならば、コストは最小かそれに近ければ良いわけです。そのコストを削減する良い方法の一つが「基準書にあたる」ことなのです。原書は理解できなくても、ここが大元と目星がついていれば、自ずと自分なりの地図が描けるので、少し楽になります。

それから、テーマが同じ人と会話することによって、更に理解を深めることができます。自分の議論を深めるために、まず相手に自分の意とするところを理解してもらって、それから反応をみます。妥当なことか、そうでないことかはその反応でだいたいつかめます。

それが容易にできる環境に身をおけることも大きいです。

私はやりたいことがたくさんあります。そのためには方法を選びません。もちろんコストがより小さい方法を選びますが、奇手、悪手を採ることには躊躇しません。が、それゆえに、必要外の他人との衝突が起こる道を進むことはしません。それは私にとっては単なるロスだからです。議論それ自体が好きな人はいるようなのですが、それはその人の目的に合致しているからそれもありだなと眺めるくらいで、私の目的にはないので採らないだけです。

長くなりましたが、論点は二つです。

1、大学院本来の機能を駆使すれば、自分の能力向上に役立つよ。(職業だと「習得」よりも「利潤追求」に目的がおかれるから、ブレやすいところがある。本来なら、高等教育機関が根幹を担うべきだけど)

2、その能力は、理解して説明するまでの知的作業のプロセスと、他人とのコミュニケーション能力に二分されるよ。意外と他人とのコミュニケーションが大事なんだな。


なので、合法の範囲内で方法を駆使して、良い研究・教育ができるところに就けたらいいなあと臨んでいます。