[argument]徴兵制度復活の可能性

http://www.tobunken.com/olddiary/old2004_02.html

via http://planet-d.hp.infoseek.co.jp/index.html

 夕方、起き出して日記つけなど雑事。ネットを回覧していたら、東浩紀氏が、自分 のブログの2日付けの記で、徴兵制に対してヒステリックなほどに忌避を表明してい た。“忌避”と広辞苑で引くと、例文に“徴兵を~する”と出てくるのにいつも苦笑 していたが、まさに辞典の例文になるか、と思わせるくらい徹底した忌避で、もし日 本がどこかの国と交戦状態に入って、自分が徴兵されるようなことになったら、裏切 り者と罵られようと投獄されようと家族に石が投げられようと、国外逃亡でも何でも 試みて、それを避けるだろう、というようなことが書かれている。

http://www.hirokiazuma.com/blog/

 東氏が徴兵をどれほど忌み嫌おうと自由だが、仮にも学者と名乗るのであれば、少 しは冷静に、果たして現代日本で徴兵制度などというものを敷くことが可能であるか どうか、考えてみたらよかりそうなものである。右寄り論客の中にも、徴兵制復活を 唱えるものがまだいて、いつもバカだね、と思っていたのだが、それと立場こそ正反 対ではあってもレベルが同じというのは、決して褒められたことではあるまい。もちろん、東氏の言いたいことは徴兵制そものではなく、その先のことなのだろうが、オタクを論じるときもそうだったように、この人は、その話の起端となるところのカン違いでつまづくのがルーティンになっているようだ。不勉強ぶりに関しては相変わらずである。

 徴兵制度アレルギー的なマスコミは、戦争の第一段階がまず徴兵制である、と、徴 兵のチョウの字さえ嫌悪し、これを連想させるあらゆること(例えば以前にちょっと 提案が上がった青少年に対する奉仕活動の義務化など)を軍国主義化の第一歩、とわ めきたてるが、すでに世界において徴兵制度は時代遅れのシステムになりさがってい るのである。それが何より証拠には、上記マスコミや平和運動家たちが口をきわめて 侵略国家の親玉、軍国主義の権化、ミリタリスティック・アニマルと罵倒してやまな いアメリカが、今や徴兵制国家ではなくなっているではないか。プロの軍人による少 数精鋭制度の方がずっと戦争効率がよろしい、ということに、とっくの昔にアメリカ は気がついているのである。しかも現代戦は通常兵器ですらハイテク化しており、き ちんと学習・訓練を受けた専門家でないと扱うことすら難しい。無理矢理徴兵された 兵隊というのがいかに役に立たないかは、イラク戦争のときの、あの大量の投降兵た ちの姿を見れば一目瞭然であろう。ヨーロッパはフランス革命の伝統から国民皆兵が 国家の原則(徴兵制というのは、もともと王の私兵から自国の防衛権を主権者である 国民に取り戻そうという、民主主義の思想なのだ)であったが、フランスもイタリア も徴兵制は廃止に向けて動いているし(もうされてたっけな?)、アジアではなんとあの人民解放軍を有する中国までもが、徴兵制度見直しの動きを見せている。いずれも、“あまりに効率が悪い”のが最大の原因である。

 なにより、徴兵制度を行おうとする側に立って考えてみれば、彼らがまっとうな思 考力を有する限り、大規模な徴兵が、いかに国を疲弊させるものか、ということを、 自国の歴史から学んでいるはずである。先月の日記(23日)で書いたように、終戦 間際の日本軍は700万人以上という膨大な数の兵士を国中から徴兵し、そのために 日本国中の全生産機能はほぼ、ストップしてしまった状態であった。戦争末期の日本 には、まだ上陸してくる連合軍と水際で一大戦闘を行えるくらいの兵と軍備は残って いた(だからポツダム宣言受諾に陸軍が抵抗したのである)。だが、国民の方に、飢 えと物資不足で、すでに戦える余力が残っていなかった。徴兵で労働力、生産力を根 こそぎ持っていかれたためだ。大日本帝国は自らの身を徴兵制で食い尽くして自滅し た、タコ国家であると言えなくさえない。日本が“次は戦争に負けない”ように考え て軍国主義化するのであれば、大規模な徴兵制度こそはとってはならない方法の第一 であろう。

 その上、いま徴兵制を施行するとなると、どれだけの金と手間が必要になるか。太 平洋戦争時の日本が700万もの兵隊を(質は問わずとも)集め得たのは、明治以来 作り上げられてきた徴兵システムと軍事施設があり、その運用に軍が習熟していたた めである。例えば、他国に軍を攻め込ませ得るほどの軍隊というのがどれほどの規模 を必要とするかの算定は難しいが、とりあえず計算しやすく、太平洋戦争開戦時と同 じ200万人の兵士が必要だ、としておこう。現在の自衛隊員の総数が約26万だか ら、差し引き174万人。オタクにわかりやすく言うと、一日のコミケ入場者数の約 11倍半である。それだけの数の人間を、家々から追い立て、集合させ、移動させ、 収容し、寝させ、食わせ、武器を与え、逃げ出さないように見張り、そして訓練しな ければならない。しかも、これらをごく短期間に行わねばならぬ(だらだらやってい ては嗅ぎつけた周辺諸国がやかましい)。かなりの箇所に分散したとしても、その場 所、施設、機材、運搬用車両等がどこにあるか。車両や航空機は民間のものを転用す るにしても、限度がある。施設は広大なものが必要となるが、これをどこに建設する か。かつての日本のように、そこらに土地が余っている時代ではないのである。そし て、言うまでもないことながら、彼らは生産に従事しない。被服から武器まで、衣食 住丸抱えで、国は彼らを養っていかねばならない。ましてや彼らを戦場に送るのであ れば、その食料支給には、以前述べたように、まず日本の自給率から見直していかね ばトテモやっていけないだろう。

 戦前の軍隊がなぜこれだけの人数をスムーズに集め得たかと言えば、その理由のひ とつが、娑婆(一般社会)よりも軍隊の方が、平均して生活水準が高かったことであ る。軍隊に行けば米の飯が食える、という考えがポピュラーであったほど、戦前の国 民は平均して貧乏だった。司馬遼太郎が徴用され、宇都宮の戦車部隊に配属されたと き、隊長が“お前たちの中で電話をかけたことがあるものはおるか”と質問したそう である。司馬氏が見回すと、数十人いた徴用兵中に、戦争末期においてすら、電話を かけた経験のあるものはほんの数人しかいなかった。入隊は、彼らにとって生活のレ ベルがぐんと上がることを意味した。それだから、兵役忌避も脱走もごくわずかしか 出なかったのだ。それに、そういう貧しい農村部出身の兵隊ほど、戦場では強い。逆 に、美食・贅沢に慣れた都会の兵は弱い。特に大阪出身の兵の弱さは、西南戦争以来 の伝統(?)で、彼らは第八連隊に多かったため、“またも負けたか八連隊、それで は勲章くれんたい(九連隊)”という戯れ歌が太平洋戦争時まで歌われたほどだった とか。今の若者の贅沢度は当時の大阪人に数十倍することだろう。果たしてこんな連 中が兵力になり得るか。

 もし、“日本は徴兵制に向けて歩を進めている”論の方々がそれをいまだ叫びたい のであれば、その前に、“なにゆえ世界的に志願兵制が主流になっている今日にあた り、日本のみが時代遅れで効率の非常に悪い徴兵制にこだわり続けると考えるのか” を説明する義務があるように思う。徴兵制ばかりじゃない、軍国主義全体がそうであ る。『オースティンパワーズ』というおバカ映画で、60年代から冷凍睡眠で現代に 甦った悪の天才、ドクター・イーブルが、部下たちに新たな世界征服計画を示すが、 首領のいない間、総合企業として組織は存続しており、その間に石油企業も軍需産業 も、みんなその会社がビジネスとして傘下におさめてしまい、実質的に世界を征服し てしまっていて、何もやることがない……というギャグがあった。バカ映画と思って 観ないでいるとソンをする。すでに時代は暴力による世界制覇の時代ではなくなって いることが、この映画を観るとちゃんとわかる。東氏は観ているだろうか?

 もちろん、先に述べた通り、いまの日本にも、なお徴兵制を主張する意見はある。 しかし、その大部分は、軍事目的で言っているのではなく、現在の若者のだらしなさ に憤慨するあまり、徴兵して芯からたたき直してやれ、というスパルタ教育の一種、 戸塚ヨットスクールの同類として軍隊をとらえているに過ぎない。そんな非論理的な 感情的意見におびえる必要など、全くないことは、すぐわかる。……にも関わらず、 今の知識人、ことに若手の知識人の間には、この徴兵制復活に対する神経症的恐怖感 を表明する者がやたらと多い。これは何故か。おそらく、彼ら若手知識人は、オトナ たちが徴兵制を真面目に復活させようとしているのだ、キミたちはアブナイのだ、と 言い続けて、自分と同世代、またはそれより下の世代を煽動しなくてはならぬ、商売 上の必要性を常に持っているのだろう。下の世代をタキツケて年寄り連中との抗争を 起こさせ、自分はその若者たちにかつがれて、著作印税や講演収入で飽食しようとい うのが彼らのハラである。そのためには徴兵制という文句は、実に今時の若者に嫌悪 感を抱かせる、いい語彙なのだ。若者たちよ、こういう奴らに騙されてはいけない。 彼らは幻影で君たちをおびえさせ、いいカモにしているのである(まあ、東氏はそん な裏のない、単なる勉強不足のバカだと思うけどね)。

実際に調べたわけではないのでよくわかりませんが、直感的に「効率悪い」とする意見は理解しやすいところです。正否はともかく「勝利を収める」ために投下すべき人員に有象無象をあてがうわけにはいかないでしょう。特に、ランダムに徴兵したとして、私のような全く体力に劣る人間の使い道なんて捨て駒くらいしかありません。

で、このように反論されている東氏の意見は以下の通り。

http://www.hirokiazuma.com/archives/2004_02.html

より一般論にもっていきましょう。僕はこういうとき必ず徴兵制の問題を考えます(韓国に行くと必ずそのことを考えます)。僕はとにかく絶対に兵士になりたくない。平和主義とか何とかではなくて、個人的に武器を手にとりたくない。そして僕は、これは、単なるわがままであると同時に、というよりも単なるわがままであるからこそ、ひとりひとりの人間が絶対に手放すべきではない権利だと考えます。したがって、もし日本国がどこかの国と交戦状態に入り、僕自身も徴兵されるときがきたら、裏切りものと罵られようと投獄されようと家族に石が投げられようと、国外逃亡か何か試みるでしょう。

そしてこれは、徴兵の問題に限らず、僕たちが日常的に迫られる選択の分かりやすい例です。社会が全体として何かを決める。その決定の手続きが完全に合理的で合法的だったとしても、ひとりひとりの人間には、必ずその全体に「否」を突きつける自由、言い替えれば、社会から降りる自由がある。少なくとも僕はそう考えます。『動物化するポストモダン』で、僕はそんなことを「解離的」という言葉で表現していたつもりでした。

うーん、私がもともと唐沢氏のファンであるので、若干唐沢氏よりになってしまいますが、これは少し納得できないですね。